「大切なわが子の子育てに失敗したくない」と思えば思うほど、正解を求めたくなるのが親というものなのかもしれません。
子育ての正解ってなんだろう。理想の親の在り方ってなんだろうと、悩んだりしますよね。
「このレールに乗って走っていけば人生、一生安泰だ」という「正解」がないこの時代。
理想の子育てを追い求め過ぎて、子育てに息苦しさを覚えている親御さんに向けて、「子育ての最終的な目的とは」をテーマに、小川大介先生にお話を伺いました。
「大切なわが子の子育てに失敗したくない」と思えば思うほど、正解を求めたくなるのが親というものなのかもしれません。
子育ての正解ってなんだろう。理想の親の在り方ってなんだろうと、悩んだりしますよね。
「このレールに乗って走っていけば人生、一生安泰だ」という「正解」がないこの時代。
理想の子育てを追い求め過ぎて、子育てに息苦しさを覚えている親御さんに向けて、「子育ての最終的な目的とは」をテーマに、小川大介先生にお話を伺いました。
教育家・見守る子育て研究所 所長
1973年生まれ。京都大学法学部卒業。
私は学生時代から大手受験予備校、大手進学塾で看板講師として学習産業に関わってきました。
大学を卒業した後、ご縁をいただいて、社会人プロ講師によるコーチング主体の中学受験専門個別指導塾を創設し、以降18年間に渡って代表を務めてきました。
みなさんのご家庭では、子育てで一番なにを大事にしていますか? 我が家には、迷ったときに立ち返る「子育ての軸」があります。それは「子どもが何歳だとしても、親の自分達とは別の一人の人格として向き合う」ということです。
私も妻もわが子のことを「この子」や「うちの子」という言葉で呼び表したことがありません。では何と呼ぶか? 生まれた瞬間から「この人」です。夫婦でこの呼び方が自然でしっくりときたので、名前そのものを呼ぶことに加え「この人」「あの人」という言い表し方をずっと使ってきました。
言葉を発することがない乳幼児期は、本人が言葉による自己主張をしないのでなかなか気づきにくいのですが、子どもをよく観察してみると、目の表情や小さな仕草から、自分と異なる意思や関心を示していることがわかります。体の大きさや表現能力に関わらず、そこに既に親である自分とは違う人格が存在するという感覚は、子育てにおいてとても大切だと思います。
子どもを育てていくうえで、多くの親が陥りがちなのは、子どもを自分の思い通りに育てようとする思い違いです。血がつながっているだけに、自分の思うように育ってほしいと期待してしまいがちです。
わが子が幼稚園のころ、周りのママ・パパ友はみんな、子どもを「この子」「うちの子」と呼んでいました。親同士の会話やメールのやりとりでも、「この子にはそろそろ英会話をやらせた方がいいかな。まだ早いかしら」といった「何を、いつ子どもに与えるか」という話題が多くありました。
でも、子どもを「この人」と呼んでいる我が家の場合は、「『この人』はどういう人間で、何に関心があるのかな?」とか「親としては武道をしてほしいけど、『この人』はどう思うかな。『この人』次第だな」という考え方を大切にしていました。親の願いは一応あるけれども、最終的に決めるのは子ども自身、というスタンスです。
習い事に塾、早期教育に子育てハウツー……。情報があふれている今の時代は、人口減少もあいまって、親が子ども一人あたりにしてあげることが増えました。これは一見、ていねいで豊かな親子の関わりが増えたように思えるかもしれませんが、じつはとても危険な風潮だと思います。
身に付けるべきとされる知識とスキルが膨れあがる一方で、親は「自分がこれとあれをしてあげた結果、こんな子が育った」という風に、「親の行動」と「子どもの成長」に強い因果関係があると思ってしまう。さらに「子どもを成功させたい」「失敗をさせてはならない」といった不安と焦りの心理から、なんでもかんでも子どもに与え、先回りしてしまう傾向が目立つようになったからです。
目の前にいる子どもが「見えている」にもかかわらず、親自身の価値観が強すぎて、子どものありのままの姿に気づけない、気づいたとしても受け入れようとしない親が、確実に増えています。
日本の経済が成長軌道に乗って、人口も多かったひと昔前は、ある程度環境に任せた子育てができていました。出生率が2%近くと、各家庭に2~3人の子どもたちがいるので、「子どもは一人ひとり、それぞれ違う」という事実にみんなが日常で触れていました。家の近所にも、街の中にも子どもたちがたくさんいたし、地域に商店があり、工務店があり、駄菓子屋がありました。地元で仕事のやり取りがなされている姿を、日常的に目にすることもできたので、「人は人。もうそれぞれだよね」という当たり前のことを、今よりも感じやすい社会だったのです。
対して、少子化が進み、職業選択がシビアになって、経済格差が広がる令和の時代における子育ては、違う様相を呈しています。親の本心では子どもを認めて、成長をゆっくり待ってあげたくても、社会構造がそれを許しません。
「いろいろな情報を与えたらこの子を変えることができる」というふうに、親に錯覚を起こさせてしまうほど情報過多ですから。もっといえば、子どもが親の所有物になってしまう怖さが、どんどんと広がっているのではないでしょうか。
親子関係においては、親が圧倒的に強者でいられます。その怖さに気付かずに、子どもを自分の所有物と考えてしまうのは、親としてあまりに未熟です。しかし最近は「子どもの未来は親の自分に作りあげる責任がある」とプレッシャーに感じている親が、とくに都心部で増えているように思います。
また、ここ20〜30年で「子育てにおける投資回収率」という発想をする人がずいぶんと増えたようにも感じています。そうした人の言葉には、自分自身の満足のために子育てをしているような考え方が透けて見える気がします。
子育ての最終的な目的は、子どもが育った後、親が報われることではありません。責任感と愛情を持って、子どもが自立するのを応援することにあり、そのゴール(という言葉もすでにおかしいのですが)の先にあるものは、親自身の手に返ってくるものではありません。
あなたがもし、本当に子どもの自立と成長を願うなら、何歳であったとしてもわが子を自分とは別の人格だと思って子育てすることを、私はおすすめします。
子どもは自ら育ってゆくもの。悩みや問題を解決する力は、生来子ども自身に備わっているのです。
親は子どもをよく観察して、本人が得意なこと、好きなことに目を向け、強みを発見し、それを発揮するのを手伝うだけでいいのです。2歳なら2歳に見えているもの、考えていることがあります。もちろん子どもは毎日成長し続け、姿も変わっていきます。
ですから親は、目の前の子の様子をもどかしく感じたとしても、未完成なものに手を入れようとするのは慎むのが知恵です。子どもを一人の人格として完成している存在として尊重したうえで、伸びてゆくお手伝いをするという姿勢を貫きましょう。
これは子育てにおいてだけでなく、夫婦・パートナーの間でも同じことがいえます。家族として精神的、経済的な依存関係があったとしても、相手を一つの完全な人格としてとらえることは、「私は私」「相手は相手」と割り切ることにつながります。その結果、お互いにリスペクトする気持ちや、感謝の気持ちを持ちやすくなり、家族の幸せが膨らむでしょう。